小学校3年生が暴言暴行のいじめ
昨年、神奈川県相模原市立小学校に通っていた当時小学校3年生が同級生からいじめを受け、不登校になったことから転校を余儀なくされた案件で、市教育委員会は第三者委員会の設置を決めた。しかし被害児童の保護者は学校が作成した報告書に対する「所見」を提出し、市教育委員会の対応を強く批判した。また第三者委員会の設置についても不信感をあらわにした。
保護者と市教育委員会によると、被害児童は昨年4月頃から日常的に同級生からの暴言や暴行を受けていた。保護者は学校に対応を求めたところ、学校は教育委員会に報告するなどの対応はしたもののいじめは止まず、同年8月になって被害児童は転校をした。同9月、学校は「不登校重大事態」と認定しものの市長への報告は11月になってからだった。
被害者児童の保護者は、このような報告の遅さに加えて、本案件が「生命心身財産重大事態」にはせず「不登校重大事態」として取り扱っていること、認定過程についての経緯期間やその報告書は加害児童側からの一方的な聞き取りのみで作成され、被害者側の聞き取りが行われないで作成されていること、またこれにより100か所以上の事実虚偽、歪曲があること、といったことを列挙した所見を提出したという。
このようなことから被害者児童の保護者は、第三者委員会が機能していない、今後の調査についても疑念を持たざるを得ない、としている。
しかし、いじめはなくならないことに頭を抱える。なぜいじめるのか。そうする意味は何なのか、そしてなぜなくならないのか。いじめられた側の児童にも何らかの原因はあるのだから、という意見を持つ人もいるかもしれないが、それはどうなのだろうか。
昨今兵庫県の宝塚でもいじめによって劇団生徒が自殺に追い込まれてしまったという報道がメディアを駆け回っている。命を自ら絶ったのは25歳の女性である。しかし今回の事案の舞台は小学校である。小学生が暴言だけでなく暴行をも加えている。想像するに何とも恐ろしい画となる。加害者児童の家庭はいったいどうなっているのか、どんなだろうか、とつい思ってしまう。その家庭環境は、日常の接し方、親子との会話が気になる。コミュニケーションがもっと取れていれば、と考えてしまうのである。共働きの家庭が多くなっている中、物理的にこういった時間が少なくなっていることは間違いない事実である。
家庭の基本的在り方、というものをここで振り返る必要があるのではないか、とつい強く思ってしまう。